努力って大事ですよね。成長の源泉です。
しかし具体的には何をどこまで頑張れば「努力している」としてよいでしょうか。
人によって基準は様々ですが、実はその基準自体も時と場合で変えていいと思っています。
努力の定義、ぼくなりの基準
たとえばぼくなりの努力の基準は下記です。
- 与えられたことややって当然のことをこなすために頑張ること・・・これは努力ではなく労力
- プラスαの価値を出し、期待をはるかに超える成果を出すために頑張ること・・・これが努力
だいぶ意識高い感じになっていますが、もともと頑張ることがあまり苦にならない性格もあり、あえてこういう基準にしています。
そうすることで自分の成長を促せますし、パフォーマンスが発揮できていない時にハッパをかける良いきっかけにもなっています。
またプラスαの価値を出すために頑張っている時の方が楽しいと思えるので、そこに努力というラベルをつけることで「努力⇒楽しい」という意識づけにも活用しています。
努力の定義は変わるし変えるべき
もちろん最適な努力の基準は本人の性格や志向によって決まるはず。無理に高い基準を設定する必要なんてありません。
あまり基準が高すぎるとストレスマッハで心がすり減るし自分に自信が持てなくなってしまうし散々です。
自分が心地よく頑張れる按配を見つけることが重要。
心と身体の状況によっても基準は変えるほうがよいでしょう。
落ち込んで消えたいような時に高いハードルが目の前にあると余計に消えたくなりますよね。
これは全く健全ではありません。
ぼくも疲れて沈んでいるときは「今日もちゃんと風呂に入れた、自分えらい」など基準を大幅に下げます。
普段の状態であれば心地よく頑張れる基準値をもとに、元気なときは基準を高めてガンガン頑張り、そうでないときは低めに抑えめにして心身を養う。
そういったコントロールができるといいですね。
努力の定義を通じ、自分をコントロールしよう
努力の基準をコントロールすることはつまり、自分の頑張りに対するアクセル・ブレーキを持つことと同じです。
何のコントロールもなしにひたすらアクセルを踏み続けていたら、ゆくゆくは心身が壊れます。
逆にブレーキを踏み付ければ頭も身体もぬるま湯に使ったまま腐っていきます。
自分の心身状態にあわせて努力の基準をコントロールしてあげること。
それが心身の健康を維持する1つの方法なのではないでしょうか。
もちろん、仮に努力の基準が上手くコントロールできず失敗感にさいなまれてしまっても、必要以上に気落ちすることはありません。
人生はゲームと思えば結構なんとでもなるものですから。
まとめ:今の自分にフィットした努力の定義を
というわけで、努力やがんばりの基準を変えてみませんかとうお話でした。
努力のハードルを高く保ち、さらに引き上げ続けられるのは一部のスーパーマンだけです。
ぼくのような凡人は、基準の高低をよしなにコントロールしながら、全体としてゆるやかに上がっていく状態にするのがちょうどいい。
あなたも見つけてみてください。自分にフィットした努力の定義とそのコントロール方法。
もしキャパシティを越えた努力を続けると、ぼくのように過労でぶっ倒れてしまいますよ……
https://work.naenote.net/entry/over-worked
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